31歳。
この歳になって?
この歳だからこそ?
やっと父との付き合い方がわかってきた気がします。
数年前、母が大動脈解離と言う、心臓の大きな血管が避ける病気をしました。
その時、母を亡くすかもしれないと言う焦りから、とにかく父を責めました。
行き場のない不安な気持ちは全て父への不満に向けられていました。
母のストレスの大きな原因は、認知症の祖母でした。
小さな事で毎日母と衝突して、神経がすり減り、ついに体は死に直面する様な病気で、そんな日々に強制終了をかけてきたのです。
そんな風になるまで、母に全てを丸投げにした兄妹を集めて、祖母を施設に入れる話を進めて欲しい、と父を責めました。
こんなことになるまで放っておいたんだから、責任を持ってこの話を進めて欲しい。
寝返りすら打てない極限状態が続く母の病室の外で、父に話をしました。
そうするとどうなったと思う?
父は、壊れました。
病院にも来ず、当時まだ実家にいた妹とは激しく罵り合い、会社も休んでひたすら引きこもり、酒を飲み続けました。
でね、その時に分かったんです。
父に「父親」である強さを望み、私は父の本当の姿が見えていなかった。
父は大好きな母がこんな風になって、本当は一番傷ついて、焦って、どうしたらいいのか分からなかった。
優しすぎて、弱い。
母がいたからこそなんとか歩いて来れた父が、今はどこにも頼れるものがなく、不安で押しつぶされている。
それが父の本当の姿。
その時の私には分からなかった。
私の中で、「父親」は、悲しみや焦りを感じても、勇敢に立ち向かい、家族の危機的な状況の中でも最善を選び、導いてくれる。
そんな私の勝手な「父親」像を押し付けていた。
その「父親」とは、世間一般的な「こうあるべき」で固めた虚像だった。
体力がなくなり、酒が飲めなくなった時にようやく話をしました。
私が間違っていたと。
申し訳なくて、泣きながら話しました。
それから、父の気持ちにできるだけ寄り添い、しかし父のプライドを傷つけないような距離感で祖母の話を進めました。
兄弟との話し合いには私も立ち会い、二人を助けて欲しいとお願いしました。
祖母の話がまとまってから、ようやく父は母のお見舞いにも行けました。
入院から3週間くらい経っていたかも知れません。
私が、「父親」ではなく、一人の個人として父と話をするようになってから、父とはとても付き合いやすくなりました。
本当の父が見えるようになってから、情けないとか頼りないとか、そんな風にも全く思わなくなりました。
だって、それは私が作り出していた誤解だったから。
誤解がなくなり、とっても人間らしくて、優しくて、生きにくい父が大好き!という素直な感覚に戻れました。
祖母=過去の私との対峙の話はまた今度。
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